<007>追悼 太神楽・鏡味仙三郎「東京かわら版」に見る2021年、演芸界で亡くなった人々・その1

鏡味仙三郎
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「キキオ案内所」にご訪問ありがとうございます。
キキオです。

日本で唯一の演芸専門誌『東京かわら版』。
2022年4月号の中に「寄席演芸年鑑2022」という部分があります。
これは、昨年2021年の寄席演芸界でなにが起こったか網羅している貴重な資料です。

というわけで今回は、その中にある「2021年笑芸関係の物故者」から、昨年お亡くなりになった方について、個人的な思い出を中心に書いていこうと思います。
個人的な思い出も含めて書きますので、すべての方を網羅はできません。
かなりざっくりとピックアップしました。
すみません。

たくさんの方々が亡くなるのは寂しいし堪える。
皆さまのご冥福をお祈りします。

なお、演芸専門誌『東京かわら版』については、別記事を作成予定です。

(文中、敬称は略させていただたます。)

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鏡味仙三郎(太神楽曲芸師)

まず最初は、太神楽曲芸師の鏡味仙三郎
1月30日、74歳没。

鏡味仙三郎は、1973年に鏡味仙之助とコンビを結成。
2002年に仙三郎社中を結成。

わたしが熱心に身始めた頃は「仙三郎社中」だった。

弟子に、鏡味仙志郎、丸一仙三、丸一仙花、鏡味仙成がいる。

太神楽とは

太神楽(だいかぐら)、と聞いてもピンとこない人は多いかもしれない。
もちろん神楽から始まり、江戸では「舞」があり「曲」があり…と言った解説も必要かもしれないが結局その辺りを知りたい方は太神楽曲芸協会のページをご一読を。
簡単に、本当に本当に簡単に言えば「寄席における曲芸」だ。
太神楽曲芸協会の説明ページはこちら

太神楽との出会い

太神楽をテレビで見始めた頃、まずは「海老一染之助・染太郎」だった。
パフォーマンスとして、エンターテインメント性に満ち満ちていたし、喋りのおもしろさも最高だった。
しかし、わたしが上京してしばらくすると染太郎が2002年に亡くなった。
もうあの芸は観られなくなった。

鏡味仙三郎との出会い


その後、鏡味仙三郎を観ることが多くなった。
2002年の「鏡味仙三郎社中」結成も大きかったのかもしれない。
(もっとも追いかけたのは、仙三郎社中以外では「翁家和楽社中」「柳貴家小雪」だろうか。)

寄席に行くといつも仙三郎社中はいた。
いつも安定した芸だった。
芸が成功するたびに、お客さんから「おおー」と言う声が必ず出ていた。
初めて寄席にくるとびっくりする。

仙三郎はいつも最後に芸を披露する。
その時の言葉が、
「お待たせしました。寄席の中村吉右衛門です。」
だった。
その直後、前座がカーンとかゴーンとか鳴物を叩いて、仙三郎がよろめくのが常だった。
そして仙三郎は必ず「(前座の名前)さん、ありがとう」と袖に向かって言うのだった。
ここには意外な効果があって「あっ、今鳴物やっている前座さんは〇〇さんて言うんだ」と前座の名前も覚えることができた。

そこで、披露されるのが「土瓶の曲」である。
言葉で説明するのはなかなか難しいのだが、口に咥えた撥(ばち)の上に土瓶を置く。
もちろん手は使わない。
土瓶を移動させたり、跳ねさせたり、傾けたりする。
そして、手を使わずに蓋を取るのである。

と書いてみたもののなかなか文字では伝わらない。
太神楽曲芸協会のページを貼ります。
ここで撥をくわえているのが、鏡味仙三郎本人である。


「土瓶の曲」は本当に見事だった。
毎回必ずお客から声があがっていた。

あの芸がもう見られないのは寂しい。

わたしにとって、人生でいちばん回数を観た太神楽曲芸は「鏡味仙三郎社中」だ。
これは間違いない。

弟子の丸一仙三と丸一仙花のブログが写真もたくさん載っていて素敵なので、こちらもどうぞ。

最後に

今回から数回に渡って、雑誌『東京かわら版』2022年4月号に載った2021年に演芸界で亡くなった人について思い出を書こうと思います。

書きながら寂しい気持ちになりますが、わたしの記憶には残り続けます。

続々更新したいと思いますのでよろしくお願いします。

キキオ

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