<012>追悼 落語家川柳川柳・三遊亭円丈・立川らく朝 三味線漫談家・柳家紫文「東京かわら版」に見る2021年、演芸界で亡くなった人々・最終回

東京かわら版追悼2021その6
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『キキオ案内所』にご訪問ありがとうございます。
キキオです。

日本で唯一の演芸専門誌『東京かわら版』。
2022年4月号の中に「寄席演芸年鑑2022」という部分があります。
これは、昨年2021年の寄席演芸界でなにが起こったか網羅している貴重な資料です。

というわけで今回は、その中にある「2021年笑芸関係の物故者」から、昨年お亡くなりになった方について、個人的な思い出を中心に書きたいと思います。
個人的な思い出も含めて書きますので、すべての方を網羅はできません。
かなりざっくりとピックアップしました。
すみません。

今回は、その6回目にして最終回。
少しでも書き留めておきたい、そんな芸人をご紹介します。

たくさんの方々が亡くなるのは寂しいし堪える。
皆さまのご冥福をお祈りします。

各ページもご覧ください。
その1その2その3その4その5

なお、演芸専門誌『東京かわら版』については、別記事を作成予定です。

(文中、敬称は略させていただたます。)

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川柳川柳(落語家)

落語家。
11月17日。90歳没。

川柳川柳については、別の記事で詳しく書いた。
こちらをお読みいただきたい。

寄席に行けば必ず会える。
そう思っていたが、人生はそんな簡単ではなかった。
この繰り返しで、回ってゆくのだね、川柳師匠。
たくさんの思い出をありがとうござました。

三遊亭円丈(落語家)

落語家。
11月30日、76歳没。

三遊亭円丈は、もはや伝説の噺家と言ってかまわないだろう。
古典落語の名人中の名人、三遊亭圓生を師に持ちながら、師匠の死後、円丈は自ら創作するいわゆる「新作落語」に向かった。
そこで生み出された数々の噺は、古典落語とは違う魅力を放った。
とても文学的であり、私的なできごと、私的な視点を縦横に取り入れ、その落語は多くの落語家はじめ落語ファンを刺激した。

しかし、わたしは円丈の新作落語に生で触れる機会は意外なことにあまりなかった。
一番東京で濃密に落語に接していた2007年から2009年、円丈は師匠・圓生を思ったのか古典落語をやる独演会をやっていて、その会に良く通った。
だから残念なことにわたしは、新作の革命的な部分にあまり触れてこなかった気がしている。
晩年、何度か高座に出会えたが、その時はノートを持参し、おもしろい小噺をする。
そんなふうに変わっていた。
だから自分の思い出は、なぜか「円丈の古典」になってしまっている。
(「悲しみは埼玉に向けて」も「グリコ少年」も「ぺたりこん」も初めて聴いたのはCDだった。)

その革新性はいわゆる「円丈チルドレン」と呼ばれる噺家を産んだ。
直弟子である三遊亭白鳥をはじめ、春風亭昇太、柳家喬太郎、林家彦いちらが代表である。
このメンバーはそのまま「創作話芸アソシエーション」いわゆる「SWA」(すわっ)と言うユニットに結実した。

また、さらに下の世代にも大きな影響を与えていた。
そのひとつがユニット「新作落語・せめ達磨」だろう。
現在も続いているようだが、わたしが生で観ていた時は古今亭錦之輔(現・6代目古今亭今輔)、春風亭栄助(現・春風亭百栄)らが中心だった頃である。
「せめ達磨」はかなり小さな会場でやることが多く、毎回お見かけするお客さんがかなりいた。
二ツ目の新作落語の会であるが、刺激にあふれ独創的で、また実験的な落語を数多く聞くことができた。

もちろん年齢が近い噺家にも相互に影響を与えあっていたはずだ。
「実験落語」と言う会が大きな場であったと思う。
わたしはそのメンバーの中では、柳家小ゑん、夢月亭清麿らを良く聴いていた。

円丈の新作落語をはじめとした落語界への影響は計り知れない。
繰り返しになるが、「伝説の落語家」のひとりであることは間違いない。

もっともっと新作落語を生で聴きたかった。
わたしの落語の遍歴を思い返すとかなり悔しい。

最後に。
1978年の師匠である圓生が落語協会を脱退する騒動を描いた『師匠、御乱心!』(原題:『御乱心 落語協会分裂と、円生とその弟子たち』)はあの騒動を内部から記録されている貴重な資料である。
2018年に加筆修正されて出たのが『師匠、御乱心!』である。
機会があれば多くの人に手に取ってほしい。



また、唯一の演芸専門誌「東京かわら版」では2022年6月号で追悼特集が組まれている。
そちらもぜひ読んでいただきたい。

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立川らく朝(落語家)

落語立川流の立川らく朝。
5月2日、67歳没。

今をときめく立川志らくの弟子である。
弟子と言っても志らくより年齢は10も上である。

らく朝は、医師でもある。
入門は極めて遅かった。
2000年の入門というから、46歳での入門。
今のわたしと同じくらいである。

医師と立川流での修行の両立はさぞ大変だったと思う。
繰り返し「真打昇進トライアル」に挑むが、なかなか真打には上がれなかった。

だが、らく朝は真打にきちんとなった。
古典落語以外に、医師としての経験を活かした新作「健康落語」をたくさん遺した。

繰り返しになるがらく朝は医師であった。
だから、師匠、志らくのバセドー氏病を見抜いた。

今回の訃報を受けて、師匠・志らくが出したコメント。
「師匠よりも先に逝くやつがあるか」と同時に「命の恩人でもある」。
印象的なコメントだった。

今は入門に際し、年齢はかなり厳しい部分があるようだが、らく朝のように別にしっかりと仕事を持っているのに、噺家としても真打にまでなる。
本当に素晴らしいことです。

柳家紫文(三味線漫談家)

三味線漫談家。
11月19日、63歳没。

10年以上前になるが、ある時期、とても多く寄席にでていた。
近年はどうだったのだろうか。

長谷川平蔵が橋のたもとでよろける。
「大丈夫ですか?」
そこでの返しが笑いになった。

スーッと出てきて、小さな声でネタをやり(実際には大きいのかもしれないがこれはイメージだ)、スーッと高座を降りていった。

寄席ではあまり感じる人はいなかったかもしれないが、三味線の名手である。

近年、ネタを観ることがなかったが、あの芸を思い出して、やっぱり少し笑ってしまう。
寄席に通いまくっていた時期を思い出させてくれる、わたしには大切な芸人だ。

まだまだ若いのに残念です。

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最後に

ここまで、わたしが生で良く観て、印象に残った人について書きました。

ここに取り上げなかった人が好きではないとかそんなことでもなく。
ピックアップをしただけです。

この記事で取り上げなかった方々で、「東京かわら版」に掲載された芸人を挙げておきます。

春日井梅鶯(浪曲師) 1月29日 93歳没
橘家円三(落語家) 3月15日 73歳没
桂小米(落語家) 4月26日 70歳没
宮田章司(漫談家) 6月21日 88歳没
五月小一朗(浪曲師) 7月末 53歳没
笑福亭仁鶴(落語家)8月17日 84歳没
三遊亭円龍(落語家) 8月20日 82歳没
三遊亭多歌助(落語家) 8月27日 54歳没
三遊亭栄馬(落語家) 9月29日 77歳没
初代真山一郎(浪曲師) 12月13日 92歳没

思い出は数えきれないほど。書ききれないほど。
みなさま、本当にありがとうございました。

ご冥福をお祈りします。

キキオ

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