<006>追悼 「川柳川柳」寄席に行くといつも会えた落語家。愛された師匠。その仰天のエピソードを振り返る。

追悼川柳川柳

キキオです。
本日も「キキオ案内所」にお越しいただきありがとうございます。

今回は、2021年11月17日にお亡くなりになった落語家、川柳川柳(かわやなぎせんりゅう)師匠への追悼文を書きます。

数々の伝説を持ち、多くの方に愛された川柳師匠。
わたしの想い出も含め、追悼文といたします。
(以下登場人物の敬称略)

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はじめに

人間国宝・柳家小三治に続き、落語家・川柳川柳が亡くなった。
90歳だった。

小三治については、コラムニストの堀井憲一郎氏がまことに素晴らしい文章を書かれているので、そちらを読んでほしい。
さらに言うことはないぐらいの名文だと思う。

わたしが寄席に通い始めた90年代半ば以降、晩年の数年を除き、川柳川柳はずっと寄席に出ていた。
いつも、どんなときも、寄席に行けば会える。
そんな存在だった。

とにかく川柳と言う噺家が好きだった。
その破天荒さも含め、愛していた。

何がおかしいって…。
いきなり軍歌を歌い出す。
立て続けに歌いまくる。
そして、ジャズの楽器を口で模し、しまいには座布団の上に立ち上がる。
そんな川柳川柳。
いつも、どんなときも、客席には笑いがあふれていた。

基本的には、古典落語をやらなかった。
後述する定番のネタ以外の新作が少しと、わたしは古典は「首屋」しか聴いたことがない。
でも川柳の師匠は、昭和の大名人の一人である。
そんなところにも川柳の得体の知れなさがある。

若い頃のわたしは、高座で歌われる、見事な軍歌やジャズをモノマネしようと必死になった。
自宅で、高座の川柳を思い出し練習を重ねた。
落語が好きな友人の前では、興が乗るとそのモノマネを披露する。
おつきあいなのかもしれないが、一応笑ってはくれる。

酒でのしくじり。師匠とのこと。芸のこと。
そのどれもが規格外で、若き日のわたしはしびれた。

そして、若手の芸人はじめ多くの落語家が川柳をいじった。
いや、いじり倒されていた。
客にはもちろん、芸人仲間にも愛されていたのだ。
(芸人は被害もダイレクトに受けているので、やや倒錯した愛情なのかもしれないが。)

今の時点でどのくらいの人に川柳川柳の芸や魅力が伝わるかはわからない。
でも、川柳川柳のことを記憶から引っ張り出して書いてみたい。

併せて、著書『天下御免の極落語 平成の爆笑王による“ガーコン”的自叙伝』もお薦めしたい。

川柳川柳サイン
著書に入れていただいた川柳のサイン(キキオ所有)

三遊亭圓生の弟子。しかし5代目小さんの一門に。

川柳川柳は、もともと「三遊亭さん生」と言う名だった。
昭和の大名人、三遊亭圓生の弟子だったのだ。
1978年(昭和53年)に、破門され、5代目柳家小さんの一門に移った。

さん生は無類の酒好きである。
酒をとにかく愛していた。
酒に愛されていた。
いや、酒で失敗を繰り返したので、酒の神には嫌われていたのかもしれない。

酒に酔い、師匠、圓生宅の玄関で脱糞した。
圓生の書斎のデスクの上に、使用済みのふんどしを置いて寝た。

酒での失敗は書ききれない。
わたしが知らないだけで、本当にたくさんのことがあったはずだ。

そして、圓生の落語協会脱退騒動が起こり、その機に破門。
(正確に言うならば「ついていかなかった」。)
後述する弟弟子の好生とともに破門されたのだ。

5代目小さんは大きな人物だったのだと思う。
そのさん生を引き受けた。

そして、人を食ったような名前、川柳川柳となる。

しかし、川柳は寄席には無くてはならぬ存在であった。
「爆笑王」と言われるがただそれだけではない。
なんだか、こうして生きていて良いんだ、と背中を押してくれた芸人であった。

ガーコン

川柳といえば「ガーコン」。
「ガーコン」は自作の演目の題名である。

ほぼこれ。
ずっとこれである。

内容は、軍国少年時代、軍歌に夢中になるところから始まる。
高座でも軍歌を歌いまくる。
戦争に勝っていた時は軍歌は明るい。メジャー。長調音階。
その後、負けがこんでくると軍歌も暗くなる。マイナー。短調音階。

そして、昭和20年8月15日の敗戦。
軍歌は、放送禁止、演奏禁止。
アメリカの音楽といえばジャズなんだから。
ということで、ラジオからはジャズが流れまくる。
高座でもジャズを歌いまくる。
得意の口でのラッパも吹かれる。
テナーサックス、ウッドベース、ドラムスの口真似も飛び出す。
そして、噺の最後に向かっていくのだが。
ここで川柳は座布団の上に立ち上がるのである。
初めて観た時は、作法とかは良いのか、とこちらが心配になった。
そこで、動く。動く。
その様子は、今も脳裏に焼き付いている。

その軍歌とジャズを歌いまくるネタを数十年繰り返し演じた。
わたしが生で高座に接するようになった90年代半ばから、基本的には「ガーコン」である。

なぜガーコンというタイトルか。
それは最後に出てくる足踏式脱穀機の音が「ガーコン、ガーコン、ガーコン」だから。

そう言うネタである。

これで軍歌を覚えた落語ファンはきっと数えきれないと思う。

高座の上での川柳はパワーに溢れていて、強制的に楽しくさせられてしまった。
いつだって、どんなときも、笑わせてくれた。

気づいたら、大切な大切な噺家の一人になっていたのだった。

川柳の言葉「みなさんは飽きてるかもしれませんけどね。自分が飽きてないんだから。」

なぜ「ガーコン」を繰り返しやるのか。
その問いに対する簡潔な答えがこれだと思う。

高座で何回もこの言葉を聴いた。

でも、実際、わたしも含め、客は飽きてはいなかったと思う。
今でも何度も何度も繰り返し聴きたい。

この言葉は至言だ。
芸、と言うものの真髄を表している。

後輩・若手からも愛された川柳川柳

三遊亭白鳥作「天使がバスでおりた寄席」の「にせ柳千竜」

例えば、三遊亭白鳥。
白鳥と言えば、新作落語のまさに雄であるが、白鳥作の落語に「天使がバスでおりた寄席」と言う噺がある。

これはフィクションと言っているが実名と偽の名前が入り組んでいて、何が本当で何が嘘かは、白鳥本人や亡くなった当人に聞かないとわからない。
いや、聞いてもわからないのかもしれない。

老舗の寄席「スエピロ亭」の近くに新しい寄席が作られて、お客を取られてしまう。
そこに伝説の噺家「にせ柳千竜」が10年ぶりに現れる。
しかし、敵であるジャニーズ亭側に寝返ってしまう。

この噺に出てくるエピソードの虚実がわからない。
そもそもにせ柳千竜が川柳川柳であるかもわからないのではあるが。

やはりここでも酒である。

酒に酔い、渋谷の旭屋書店で聖書を万引きした。
その時の言葉が「神は許したけど店員は許さなかった」。

同じく渋谷の山手協会の上にあるキリスト像を盗み、背負って歩いているところを警察に捕まった。
などなど。

題名にもなっている話は有名だ。
池袋演芸場から浅草演芸ホールの移動に電車を使えばいいものを、シルバーパスを使い、時間の読めない都バスに乗る。
結果的に出番に遅刻する。
そう言う噺だ。

柳家喬太郎の数々の言葉


白鳥と共にSWA(すわっ)と言う4人のユニットでも活動している柳家喬太郎。
古典も新作も演じる喬太郎はなにかと川柳川柳とは絡みが多かった気がしている。

2000年代一桁半ばだったか、川柳の会にゲストで呼ばれた喬太郎がまくら(噺に入る前の話のことです)で、
「川柳川柳。惜しい師匠でした。」
と言って爆笑をさらっていた。

5代目小さんが存命だった頃、毎年1月2日は目白の小さん宅に弟子、孫弟子一同が集まって新年会が行われていた。
1月2日は5代目小さんの誕生日でもあった。
そこで、小さんの弟子・さん喬の弟子である喬太郎。
小さんから見れば喬太郎はいわゆる孫弟子である。
その時、剣道場の片隅で喬太郎は川柳にこんな言葉をかけられたらしい。
「あんちゃんとか俺みたいな新作派はこう言う場は似合わねえな。」
喬太郎のまくらはこう続く。
「俺はもともと柳家だしー!」
場内爆笑でした。

愛されていたのだ。

「真夜中はピクニック。」での笑福亭鶴瓶、立川志の輔、春風亭昇太の言葉


2007年、フジテレビの深夜に放送された「真夜中はピクニック。」。
この番組は深夜3時に浅草の吾妻橋に笑福亭鶴瓶、立川志の輔、春風亭昇太の3人が集まり、
歩きながらいろいろな師匠の話をしようと言うもの。

川柳川柳の名も出た。

いくつかの言葉をひろってみると。

鶴瓶「誰の弟子やろ…圓生師匠(の弟子)やろ。なんであんなんとりはったんやろ。圓生師匠の雰囲気ないやんか。」

志の輔「あの師匠は酔ってても音を外さないね。」

昇太「(新作の会があってゲストで来ていた川柳が打ち上げで)どんどん酔っぱらっていくんですよ。先輩たちが言うんですよ。「ラッパ吹くよ」って。えー、そんな人いないだろーって。そうしたら「パッパッパッ、パパーパパ」って。」

後輩たちにいじられる。
とにかくネタにされる。
話は尽きない。
やはり愛されているのである。
後輩にはとても愛された。
本当は迷惑だったのかもしれない。
でも愛されていた。

師匠・圓生の言葉「お前は「あちゃらか」なんだから。」

川柳は、圓生に言われたこの言葉を高座で再三喋っていた。
そう言われてなかなか真打という位に上げてくれない、と。

川柳は、さん生時代、落語ではない部分で売れに売れた。
それが、ソンブレロを被り、サラッペをまとい、ギターをかき鳴らし歌うラテン歌謡「ラ・マラゲーニャ」である。

それが「あちゃらか」と言う一語につながっていく。

結局これらのことが原因の一つとなって、圓生は落語協会脱退に際し、さん生を連れて行かなかった。
破門である。

しかし、川柳のもう一つ良く知られた噺「ジャズ息子」での義太夫の場面。
その義太夫を圓生が直してくれたらしい。

愛情と憎悪とが混沌としていたのではないか。
「お前は破門」とか簡単に言える。
そんなレベルではないのだ。

川柳の言葉「笑いをやっている奴はもろいね。」

師匠・圓生から破門されたのはもう一人。
弟弟子の「三遊亭好生」である。

好生は、圓生を愛するがあまり、その芸、いやそんな言い方では甘いかもしれない。
とにかく似ていたらしい。
「圓生の影法師」と言われた。

破門された好生は、「春風亭一柳」となった。
しかし、45歳にして自死を選ぶのである。

破門は、好生にとってはとてつもなく大きなものだっただろう。
もちろん、諸説あるのは承知の上で今書いている。

川柳は、高座で、
「笑いをやっているやつはもろいね。真剣な奴、新劇やなんかなかなか死なないもの」。
のような趣旨のことを繰り返し言っていた。

記憶が定かではないのだが、直接好生のことは語っていただろうか。
川柳の著書には記述がある。

この言葉は、笑いを志すものの凄みを感じた言葉として、今もココロに深く残っている。

「川柳百席」と「池袋秘密倶楽部」

川柳の師匠・圓生には「圓生百席」と言う作品がある。
持っている噺、いわゆる持ちネタが膨大な圓生は、その中からおよそ100席。
スタジオで無観客で語った録音作品を遺した。

あやかろうと言うことなのか、スタジオ録音では無く実況録音であるが「川柳百席」が制作された。
それを作っていたのが「池袋秘密倶楽部」である。
なんだか怪しそうだ。

でも、もちろん「ガーコン」がほとんどの高座。
手元には第3弾までがあるが、それで全部だ。

昔、まだ池袋秘密倶楽部の公式ホームページのようなものがあった頃。
掲示板か何かで「川柳百席」のCDを買おうとする会話があった。
その時にお金は後払いでいいと言う流れになったのか、池袋秘密倶楽部の方からこんな書き込みがあった。
「川柳師匠を好きな方に悪い方はいませんから。」

感動的だった。
インターネット上の小さなやりとりの中にも川柳川柳への愛があふれていた。

唯一の弟子・川柳つくし。なんとそれは女性であった。

そんな川柳であるのだが、弟子を取った。

それが、川柳つくしである。

女性落語家を悪く言うつもりは全くないのだが、川柳唯一の弟子が女性というのはとても意外だった。
寄席で見聞きするかぎり、川柳のおこないについていくのは生半可では無く、もし弟子を取るとしても、とても癖の強い者が入ると思っていた。

でも、実際は、川柳つくしだった。
つくしにも凄みを感じる瞬間があるのだが、それでもやっぱり意外だった。
きっとここにも愛情がこもっているのだと思う。

そういえば、フジテレビが2000年代一桁に開催した落語のイベントで川柳川柳の会があった。
司会は塚越孝アナウンサー。
塚越アナウンサーも亡くなってしまったが、彼は川柳の著書に解題を書いていた。
落語好きである。

対談があったのだが、こんな一幕があった。

塚越「つくしさんには何を教えているんです?」
川柳「そりゃあ、圓生仕込みの古典をね…。」
塚越「何を教えたんです?何を?」
川柳「色々と。まずは圓生全集を本棚から持ってきて…。」

そんなような雰囲気だったと思う。
場内爆笑していた。

そこでも酒の話を繰り返ししていた。

新宿末廣亭6月下席 昼の部主任・川柳 夜の部主任・小三治

6月の下旬、下席の新宿末廣亭は昼のトリが川柳、夜のトリが小三治と言う時期があった。
繰り返し通った。

末廣亭は昼夜の入れ替えがないから、わたしはお昼12時の昼の部の始まりから、夜の部の終わり、21時までずっといることが多かった。

もちろん川柳川柳が観たいからであり、柳家小三治を観たいからだ。

冒頭の堀井氏の文章にもあるように、当時の状況でも小三治が夜の部のトリだと、末廣亭には午後4時前には入らないと、席を確保して座って観ることができなかったと記憶している。
客がたくさんいた。

川柳、小三治と言う流れにはクラクラきたし、そう思っていた落語ファンは多かったはずだ。

川柳はトリを務めると「ガーコン」の後に「ちょっと待っていて」と言って楽屋にいったん引っ込んだ。
ギターを持ちソンブレロを被り「ラ・マラゲーニャ」を演った。

それがたまらなく楽しかった。

そして最後に観せる笑顔がたまらなく好きだった。

そう言えばこんなことも思い出した。
繰り返し通うわたしは代演の情報を聞くために毎年末廣亭に電話をして確認していた。
寄席のトリは10日間であるが、感覚的には3日ほどは休演し、誰かが代演で出るのだ。

今のように寄席や落語協会のホームページ、東京かわら版にも、早い時期での記載はなく、直前にならないとわからなかった。
そこで寄席に直接電話をして聞いていた。
今思えばとても平和だと思う。

小三治は人間国宝にもなったから、行ってみて今日は出ないとなると怒るお客さんもいると思う。
トリが代演の場合、ときに素晴らしい落語を聴けることがあって、個人的にはそれも好きだったのだが、毎年小三治だけは入念に確認をしていた。

その電話。
小三治を確認した後に、川柳も確認をと思うと、この言葉だった。

「あっ、川柳師匠は毎日出ます。」

本当に川柳川柳的返答でしびれました。

最後に

川柳川柳がいる寄席が好きだった。
いつ行っても、ガーコンが聴ける。
そう思うと元気でいられた。

「寄席芸人」と言う言葉が似合う人であった。

本当に多くの回数、川柳川柳師匠の噺、話、そして周りの人のエピソードに触れられて、わたしは幸せでした。

もう高座で観ることができないのは本当に本当に寂しいけど、でもこれだけ触れられたから良しとしたい。
忘れないから良いですよね、川柳さん。

それで川柳師匠にはご納得いただきたい。

ご冥福をお祈りします。

キキオ

追記(2021年12月10日深夜に)

この文章を書くことで少しココロが落ち着きました。
日が経つとともに川柳師匠がいなくなったこと。
受け入れられるようになってきた気がします。

そこで、やっとインターネット上にある川柳師匠のことを書いた文章を読んでみようと思いました。
2つほどご紹介。

併せて読んでいただけるとさらに川柳師匠のことがわかるかと思います。

一つ目は、小三治師匠の文章も書かれていたコラムニストの堀井憲一郎氏。
堀井氏についてはあらためてご紹介する機会を作りたいと思っています。
川柳師匠について書かれた文章もとても素敵でした。

特に最後が良い。
そんな気持ちになったこと、たくさんあります。

そして、もう一つが放送作家の松田健次氏の書かれた文章。
松田氏は川柳師匠の会も主催されていた方で、わたしが知らないこともたくさん書かれていて、嬉しかったです。
松田氏が川柳師匠の会を始められた2009年。
わたしは東京から生まれ育った地方都市に帰ってきた年なので、その会に行くことはできませんでした。
非常に残念でした。

歌われていた軍歌も列挙されていて、いろいろなことを思い出しました。
池袋秘密倶楽部についても詳しく言及されていて、勉強になりました。

7月17日追記:「BLOGOS」のサービス終了を持って現在は読むことはできなくなっています。

8月24日追記:こちらのサイトで、転載された松田氏の文章を読むことができることを検索から知りました。

川柳師匠は亡くなってしまったけど、多くの人のココロに残り続けます。
あらためて、ご冥福をお祈りします。

キキオ



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